Monthly Archives: 7月 2009

La Rubiaceae-planto Coprosma-genro en pluvo

Pluvon prenas la Rubiaceae-planto Coprosma-genro ‘Coffee’. 

Plena nubo kurtenis la partan suno-eklipson

Hodiaŭ aperis plena suno-eklipso en Insuloj Tokara ( Insulo Akuseki-jima subite fariĝis fama ) kaj Insulo Yakushima de Gubernio Kagoshima, Distrikto Kyûshû; kio okazis ĉe Japanujo depost la 21a julio 1963, antaŭ 46 jaroj, en Hokkaidô. 

Sed hodiaŭ pluvis en Insuloj Tokara kaj Yakushima, oni malsukcesis observi la nunan eklipson. 

En Regiono SanIn, aperis la parta ( 80% ) eklipso je ĉirkaŭ 11:00 tra plena nubo sur la ĉielo.  Tuj post finiĝis la eklipso, la nubo rapidis pli densa kaj kaŝis la sunon. 

 

 

Pri la venontaj eklipsoj:

Post 3 jaroj, la 22a majo 2012, aperos parta / ringa suno-eklipso ĉe Japanujo. 

Post 26 jaroj, la 2a septembro 2035, ree aperos plena suno-eklipso ĉe Japanujo, kion oni vidos en Distriktoj Chûbu, Kantô. 

 

Pluvis en Urbo Hiroshima

Pluvis en Urbo Hiroshima. 

Mi vizitis kun miaj kolegoj la areon Kamiya-chô en Urbo Hiroshima, kaj spektis la filmon “Tsurugidake”. 

Rozojn damaĝis la lepidopteroj Parasa lepida

Multaj aperis la lepidopteroj Parasa lepida.

Ili damaĝis la rozojn en iu ĝardeno, morde ties foliojn.

 

François Lo Jacomo: “Liberé ou autorité dans l’évolution de l’espéranto”

言語の発展国際語エスペラントの観点から

著者:フランソワジャコモ

訳者:水野義明

発行:大村書店
初版19921030

 

序言

 「エスペラント博士」の「国際語」の最初の入門書(1887年)が世に出てから一世紀近くたった。この頃「エスペラントは失敗なのか」という疑問をよく耳にする。

 

 こんな疑問が出てくるのを見ただけでも、一般の人々の考えでは、「エスペラントは『言語』である」ということが充分に意識されていないとわかる。こういう疑問をもつ人は、たとえば「ブルターニュ語は失敗なのか」などとたずねるつもりだろうか。エスペラントの創始者レイゼル・ルドヴィヒ・ザメンホフは、国際交流をやりやすくするための道具を世界に与えようと思ったのだ。この道具はげんに存在し、うまくはたらいている。ほかの人たちがそれを使っていないからといって、それを使っている人たちまでも悪く言う必要がどこにあろうか。

 

 人間が月に行くことができるのとまったく同様に、人間は現代世界の言語問題を解決することができる。ちがいといえば、月に行くのは少数の個人の関心事だが、国際交流はわれわれ全員の関心事であるということである。エスペラントはすべての人が利用できる。金がかかりすぎるといって月に行くのは諦めてしまったのに、金があんまりかからないからといって、エスペラントを受入れようとしないのだ。

 

 ジョナサン・ブールが証明しているように、エスペラントを採用すれば或る種の国際交流がかなり安上がりになるのは、明らかだ。ここで言っているのは、現存の諸言語の代わりにエスペラントを使い、げんに使われている民族語をさしおいてもエスペラントを正式に国家の第一言語にしようなどということではない。それに、エスペランティスト(エスペラントを使用している人)の中には、非エスペランティストよりももっと多くの民族語を話す人々もよくいる。つまり、ここで言っているのは次のようなことなのだ。「交流といってもいろいろな形があるからそれらを分けて考える。地域的なレベルでは、各人が自分の固有の言語で交流するのを許す。この場合は、中央集権的国家機構によって他の民族の言語を押しつけられることはない。ただし、話し合っている人どうし共通の民族語を知らないときや、共通の民族語があってもそれを話すのはおことわりだというときには、エスペラントというこの国際的な道具をできるだけ使うのだ」

 

 国際的機関や一般世論がいまだにエスペラントを認めていない理由は、いろいろと複雑である。疑いもなく情報不足なのだ。エスペラントについて知っているのは、自分が経験したことだけだ。たとえば、会ったことのあるエスペランティストのことなど。そんな程度では、エスペラントを勉強しろといってもあまり説得力がない。心理学者で世界保健機構の通訳官をしているクロード・ピロンは、これにはいくつか心理的要因があると言う。たぶん、現代文明の交流状況はエスペラントを受け入れるところまでいっていないのではないだろうか。国際交流など、ほんとうに必要だろうか。だいたい、パリのような大都会にいると、隣近所の人と交流する必要さえないのだから、まして国境の向こう側の「野蛮人たち」と交流する必要など果たしてあるのだろうか。

 

 エスペラントを受け入れるか拒絶するかについて、こういう心理言語学的・社会言語学的疑問はたいへん興味があるけれども、この論文の対象はそういうことではない。この論文の目的は、エスペラントという言語を研究し、「エスペラントは、その他諸言語と同様に、言語なのだろうか」という疑問に答えを探すことである。また、とりわけ、「一般に言語の発展を支配している原則は、修正なしでエスペラントにも適用できるだろうか」という疑問もある。しかし、「言語発展の支配的要因は、自由か権威か」という疑問を一般的に解決しなければ、エスペラントという個別の場合にもそういう疑問を解決することもできないのだ。

 

 この序言を補足している第1章で、私は、一般的な場合について、こういう疑問を提出しようと思う。それへの解答は、エスペラントという個別の場合を扱うところで試みるつもりだ。生きた言語としてのエスペラントについては、第2章で論ずる。ただし、エスペラントの全体像というわけではなく、この論文の大筋をもっともわかりやすく説明している側面についてである。それから、第3章では、エスペラントの発展についていくつかの問題点の概要を紹介し、さらに発展、充実、調整、改革などの現象の概要について、さまざまなエスペランティストたちの相反する意見を紹介するつもりである。

 

 最後に、第4章では、エスペラントに直接関係なく、まったく理論的な観点から、言語発展の共時的徴候を究明しようと思う。それは、以下のような疑問に私が結論を出し、解答するのに、必要な資料を、得るためである。

 

「エスペラントの発展においては、自由か、権威か」

( Liberé ou autorité dans l’évolution de l’espéranto? )