Andrew Large: “The Artifical Language Movement”

国際共通語の探究歴史・現状・展望

著者:アンドリューラージ

訳者:水野義明

発行:大村書店
初版1995620

 

日本語版への序言

 本書の英語版が出版されてからもう七年になります。執筆当時、私はウェールズ地方の二言語社会に居住していました。英国内の小さな国で、政治的・経済的・文化的生活の各面にわたって言語問題が顕著な地域です。古代ケルト語に由来するウェールズ語が英語に対して生存のための戦いを続けていました。その後、私は渡米してカナダに移住しました。カナダでは、英語とフランス語という二つの言語が公用語となっています。げんざい、私はモントリオールに住んでいます。いわば国際都市で、街頭では数多くの言葉が話されていますが、その中でも主要な英語とフランス語の支持者たちの間の摩擦が日常ふつうのこととなっています。

 

 世界各地の言語が多様なことは社会的・文化的生活を豊かにしますが、隣同士を分け隔てる壁ともなります。あらゆる生活部門で国際的規模の活動がますます盛んに行われています。しかし、個人間の郵便・電話・ファックス・電子メールなどによる国際的話し合いの必要に応じるには、交流のための共通言語が不可欠です。何百年も前から単一の言語を国際的に使おうという考えが提唱されてきましたが、今ほどその声が強まっている時はありません。けれども、その実現の見込みははるかに遠い将来のことのように見えます。

 本書の中で、国際補助言語の採択について、私は悲観的な見解を述べましたが、執筆当時の一九八五年も現在も、その考えは正しいと思います。自然言語にせよ人工言語にせよ何らかの言語を国際共通語として「法律上」採択しようという動きを見せている国際的組織は一つもありません。外交・商売・旅行・青年文化活動などの国際語として英語が「事実上」採択されている現状ですが、英語を使う人々は世界的にはまだ少数派です。

 本書の日本語訳が刊行されたということ自体が、英語が全世界的言語になっていない証拠です。また、英語自身が文法や語彙に関して世界各地でさまざまに分化する傾向を見せているのも、面白い現象です。たとえば、アメリカ英語、イギリス英語、インド英語は互いに異なる点があって、混乱を起こす場合があります。言葉をじゅうぶん身につけていない外国人が話す英語が誤解や曲解のもととなることは、国際的会議に参加した人なら誰でも経験ずみです。

 

人工言語を作成・学習・使用しようとする人々は、目的達成のためにはどんな困難をも厭いませんでした。熱心な支持者たちは、先駆者たちの伝統を継承し、いずれ近いうちには彼らの事業が成功するだろうと期待してきたのです。げんざい存在するエスペラントのような人工言語に代わって、新しい言語が作成される可能性もあります。私は、本書の中で特定の人工言語のために論じたのではなく、人間活動でもとくに魅力的なこの分野について歴史的・社会的に概観しようとしました。そのためには何らかの言語で書かざるを得ず、私が言語の壁に直面したのは当然です。したがって、この訳書によっていっそう広汎な読者に私の考えを知って頂くことになり、たいへん喜んでいるしだいです。

一九九四年三月

カナダ、モントリオールにて

アンドリュー・ラージ

 

序言

 一七世紀の初期いらい、国際交流のための普遍的媒介手段の採択を希望して、何百という人工言語が創案された。すでにネーティブ・スピーカーのグループが存在する自然言語と異なり、人工言語はすべての人が受け入れることができる中立のコトバとなるだろうという議論がある。さらに、人工言語は論理的思考を容易にし、曖昧な表現を除去し、人類の同胞愛を育成するという説が、いろいろな形で唱えられた。このような主張がはたして実現可能かどうかにかかわりなく、過去四世紀にわたってかなり多数の人々が、人工言語はの作成と積極的支持のためにすすんで尽力した。すべての現存言語に代わるべき普遍的言語としてこういう人工言語案を使おうと考える人々もいた。世界の唯一の言語を、という趣旨だ。しかし、ふつう人工言語の作成者たちはそれほど大それたことを思っていたのではない。身のまわりで話されている自然言語はそのままにして、国際交流のために役立つ国際補助言語を作り出そうとしたのである。

 ところで、この本の目的は、人間の英知によって考案された多数の人工言語案についていちいち述べることではない。それよりも、興味深く重要な言語案の中の一つを例として、人工言語運動の発展をその歴史的背景に照らして概観し、運動の現状と将来の展望を描こうとする。人工言語がすべて人間の交流を促進するために考案されたわけではない。フォートランやパスカルのような言語は構文や語彙をもつ人工言語であるが、人間がコンピューターに指示を与えるときの仲介手段として使うために作られている。このようなコンピューター言語は、この本の対象とはならない。

 第一部では、一七世紀から第一次世界大戦開始までの期間の人工言語の歴史的発展について述べた。一七世紀から始めたのには、しかるべき理由がある。人工言語作成という思想はもっと昔からあったのだが、この分野の仕事に対する関心がはじめて実際に花を開いたのは、デカルトやライプニッツの時代である。ヨーロッパの偉大な思想家たちの中には、一七世紀の間にこの人工言語という難題に注目した人々がいて、そのけっか現れたいくつかの哲学的思考をこらした言語案が、当時の豊富多彩な知的活動を偲ばせて興味深い。人工言語の歴史を論じた第一部の結論には、たぶんいろいろと異論が出ることだろう。しかし、今となって考えてみると、一九一四年の戦争勃発は、人工語運動の希望の時期に終止符を打つものだった。一九世紀の半ばいらい、人工言語案に対する人気が高まっていた。少なくとも一つの理由として、政治・交易・学問・芸術などの分野での国際的接触の拡大に応じたことが挙げられる。ヴォラピュック語やエスペラントが出現して、人工言語は大衆的支持を得る力があり、多くの言語案が失敗に終わったあとを受けてやっと成功の見通しがついたように見えた。しかし、残念なことに、民族主義の潮流は国際主義のさざ波よりもずっと根強かった。エスペラントは第一次世界大戦のきっかけとなったサラエボの暗殺事件とともに血にまみれて前進を止め、その後は二度とふたたび過去の隆盛を取り戻すことはなかったのである。

 第二部では、歴史的概観から特定の主題の研究に移る。エスペラントとエスペラント運動についてやや詳しく検討する。著者がエスペラントをひいきしているからではなく、最近の数十年間ではエスペラントが人工言語の中で優位を占めてきたからである。能動的な支持という点でも受動的な知名度という点でも、エスペラントの優位は動かしがたい。しかし、論旨の均衡を保つために、エスペラントと競合するその他の人工言語についても検討し、そのいずれかに成功の可能性があるかどうかを確かめてみる。最後に、人工言語の現状と将来の展望について考察する。現代世界は国際語をもっていると自慢できるだろうか。はるか昔にバベルの塔の崩壊によって人類に加えられた神の呪いを免れることができるだろうか。言語の混沌に陥った昔の人類の浅はかな行為を、現代の人間の英知はつぐなうことができるだろうか。

 この本では、いたるところで、「言語」という言葉に「人工」とか「作成」とかいう形容詞を同じような意味でつけている。しかし、これには「人工」という語に反対する人々からしばしば異論が出ている。たとえば、たとえば、ジュリアス・バルビンは、人工言語の一つであるエスペラントについて、次にように言っている。

 「エスペラントがすでに三世代以上にもわたって不断に成長発展を続け世界中に広まっていて、エスペラントで書かれた文献も大量に存在するのに、……残念ながら今でもなおエスペラントを『防衛』しなければならない。言語学者たちはエスペラントを一人前の言語として認めようとせず、認めたとしても「人工」言語と呼んでいる。われわれは、「人工」という形容詞がもつ軽蔑的な意味合いを知らないわけではない。それを聞くと、たいていの人は、無味乾燥で、死んでいて、活力がなく、成長や発展や進化ができず、生命を失っているなどという言葉を思い出すのである」。

 

「人工」という言葉を使っても、人間が考え出した言語が千年もかけて進化してきた言語に比べて必ずその働きが劣るという意味ではない。また、「自然」言語(バルビンに言わせれば民族言語)には、社会的・個人的力によって意識的・無意識的な操作をくわえる余地がないという意味でもない。

 学問的な研究の中には、新境地を開拓し、古文献資料の豊かな鉱脈を発掘して、現存の学説や一般的理解を裏付けしたりしようとするものもある。しかし、もっと地味な畑を耕し、現存の諸研究をまとめて首尾一貫した明快な形にするだけでじゅうぶんだと思う人々もいる。それによって、いろいろな考えや事実について理解がいっそう深まるからだ。この本は、はっきり後者の方の流れに沿っている。この本には、専門的な「深遠な」言語学的研究もないし、重要な新しい文献資料の発見もない。それよりも、人工語運動の歴史的・社会的背景に照らして運動の原因と結果や成功と失敗について読者の理解を得ることができれば、この本の任務は達成されたと言うべきである。

 人工言語の分野では分派争いや不寛容な態度がつっきものである。したがって、そういう分野で本を書こうとするときには、自分自身の立場をはっきりさせておかなければならない。私は、他の人工言語案を無視してただ一つの案だけを弁護しようと、意識的に試みることはしなかった。何が客観的なのかは微妙な問題であるが、ともかく客観性を追求したつもりである。人工言語と同様に議論の多い分野である『マルクス主義の主要な潮流』という本の冒頭で、レシェク・コラコフスキーが次のように言っている。

 

 「資料を提示し主題を選択するときや、いろいろな考え方や事実や著作や個々の学者の所説の重要度を決めるときには、著者の見解や好みが必ず反映するのは当然である。提示さえたあらゆる事実はすべて著者の個人的見解により歪曲され、多かれ少なかれ恣意的に作り上げられたものだ。とすれば、歴史的事実に関する記述は存在せず、存在するのはただ歴史的事実の評価に関する叙述だけだということになる。しかし、もしそうだとすれば、政治史、思想史、芸術史などどんな種類の分野についても、そもそも歴史書の編纂は不可能になるであろう」。

 

 この本の執筆にあたって、活動状況について情報を提供して頂いた人工言語関係各種団体に謝意を述べたい。情報についての私の解釈が本来の意図と異なっているとしたら、お許しを請うしだいである。また、国立ウェールズ図書館大学の図書館の職員各位にも、お礼を申しあげる。ウェンディ・レノルズ夫人は、読みにくい原稿に取り組んで、本文のかなりの部分をタイプして下さった。熟達と忍耐をもってこの仕事を遂行されたことに、敬意を表する。しかし、何よりもまず私の家族の人々に感謝しなければならない。ヴァレリーやアメンダやカースティは、私がしばしば不在となるのを今度もまた認めて、この本の執筆中私が家を留守にすることを許してくれた。この本は、誰よりもまず彼らに捧げるものである。

英国・ウェールズ州アバリストウィス郡コミンズ・コッホにて

アンドリュー・ラージ

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